《なにもないならなわない》2026(藁、製縄機、縄機、リズム、声)|パフォーマンス
群馬県沼田市で実践された展覧会のアーカイブ展を、東京・小平のギャラリー「The bases」にて行った。本展は、地域アートの文脈において生起した出来事を単なる記録として保存するのではなく、「アーカイブ」という形式を通して再び美術の文脈から批評的に捉え直すことを目的としている。
本作《なにもないならなわない》は、同展示作家である石井奏士郎との共同制作によるパフォーマンス作品である。私たちは「パフォーマンスはいかにアーカイブされ得るのか」という問いを出発点に議論を重ねた。その結果、パフォーマンスの本質が時間と身体によって成立するものである以上、そのアーカイブもまた静的な保存物ではなく、出来事として再び立ち上がる必要があるのではないか、すなわち「パフォーマンスのアーカイブはパフォーマンスによってのみ可能である」という仮説に至った。
この仮説に基づき、群馬で行ったパフォーマンスの本質的要素を「空間と空間を接続する媒介としての身体」として抽出した。そしてこの要素を東京のホワイトキューブに移植するため、群馬の古民家で発見した製縄機を展示空間に導入し、展覧会期間中、絶え間なく縄を撚り続ける行為を行った。
稲藁を選別し、水で湿らせ、節を叩き、製縄機で撚り上げていく一連の工程は、素材の状態を見極めながら身体を介して行われる労働である。この行為は単なる制作プロセスではなく、時間の堆積そのものとして現れる。さらに、撚り続けられる縄の表面には、沼田で撮影したドキュメンタリー映像が投影される。過去の出来事を記録した映像は、現在進行形で生成される縄の上に重なり、記録と現在、出来事と痕跡とが交差する場を形成する。
二階で生成された縄は、一階の展示空間へとゆっくりと降りていく。会期を通じて縄は絶えず増殖し、空間を縦断する物質的な軌跡として蓄積され続ける。ときおり響く労働歌とともに、その生成のプロセスが空間全体に滲み出す。
本作において特筆すべき点は、縄を階下へと送り出す装置(仮に「降縄機」と呼ぶ)が、もともと展示空間として想定されていなかった場所に設置されていることである。これは建物の構造的条件と、改装前という状況、そしてオーナーおよび借用者の許可によって床を打ち抜くことが可能であったという偶発的な条件によって成立している。
一般にホワイトキューブは、外界との関係を概念的に切断することで、作品を鑑賞するための条件を担保する装置として機能する。それは現実を抽象化し、提示するマクロなレンズのようなものである。しかし本作では、その前提を逸脱するかたちで空間の構造そのものに介入し、上下階を貫く物理的な接続を生成している。床を貫いて降ろされる縄は、展示空間の内と外、制度としての「展示」とそれを取り巻く現実とを切断するのではなく、むしろそれらを再び連続させる。
ホワイトキューブの扉の隙間に入り込む微細な塵のように、展示空間は常に外部と地続きである。本作におけるパフォーマンスは、その境界を可視化するためのミクロなレンズとして機能する。
そこにおいて、沼田で生起した出来事と、小平の展示空間とが、単なる記録の再提示ではなく、物質と身体を介した接続として立ち現れる。縄はその接続を担う具体的な媒体であり、空間を横断するリアリティの経路として存在している。
本作において縄は、単なる物質ではなく、身体・時間・空間・記録を接続する媒介として機能する。そしてその生成行為そのものが、パフォーマンスのアーカイブとして立ち上がる。