《もがくほどくつむぐ》2025,(真竹 , ロープ,土,身体,ホース,ポンプ), パフォーマンス
世界のあらゆる断片を注意深く観察すれば、そのものの前後の成り立ちが想起させられる。現象同士が複雑に交わる関係性はいつしか形や質量を持って目の前に一つの像として現れる。取り壊しが決まった古民家の壊れた土壁を見た時、何かがそこから這い出てくる情景を想像した。そのものの正体を探るべく今回の制作を行なった。私は作品を主張させるのではなく、その場の記憶が形を変えて再び立ち上がるための、一時的な通路のような存在として位置ずけた。山伏や薬売りのように人から人へ、土地から土地へと営みの断片や記憶を運ぶ媒介者としての”儀式”を行なった。限りなく意図を透明にし、複雑な世界を複雑なまま出力するかのように”そのもの”を”そのまま”作り上げた。これは至極”当たり前”の延長線上にある”ありのまま”の行為である。
作品の説明:群馬県沼田市にある、取り壊しが決まった古民家を舞台に行なったパフォーマンス作品。その家はかつて養蚕を営んでいた。小さな小さな命が産声をあげては消えていった。かつて日本の経済を支えていた土地に滞在した。ある時母屋から納屋の土壁を覗いた時、何か得体の知れないものが這い出てくるイメージに取り憑かれた。それは霊的なものというよりは、むしろ、取り壊そうとしたが壊せなかった土壁の有り様から想起された一つの想像であり、観察に基づく予想である。蚕が桑の葉を食べる時、まるで雨音のような不思議な音が家中に鳴り響く。見えないからこそ、その奥にいる得体のしれないものの存在を人は”神”と名づけるのだろうか。今回私は、そのイメージを忠実に再現したパフォーマンスを行なった。
母屋の2階と納屋の土壁を竹や廃材を組み合わせ、人が通れる道を作った。そして、その中に散水用のホースを忍ばせ、外から聞くととポタポタと雨音のような音が聞こえる。やがて、水は一階まで浸水し、道の通り道の下にあるあらゆる床の隙間から漏れ出ていった。ヤカンやコップをその下に配置し、煤や蚕の糞などを吸収し黒く濁った水がその中に雨音と共に少しずつ溜まっていった。
夕暮れ時、そのパフォーマンスは人知れず始まった。熊の毛皮で目隠しをし、ロープで身体中を束縛した私は泥だらけになりながら、納屋の土壁からゆっくりと這い出た。雨音が滲み出る、その通路をゆっくりと、ミシミシと異様な音をたてながら静かに進んでいく。時折、足や手などが通路の下や上から覗かせる。
以前、富士吉田の火祭りで見た神おろしの儀式が白布に囲まれ、外から何も見れないようなっていたのと今回の儀式が重なり、パフォーマーの身体が見えないような舞台にした。何も見えない、つまりパキッと鋭利な視覚情報が薄れ、滑らかで輪郭のない音や触覚などの感覚に人の想像的思考力が混ざり合い、既存の論理や物理法則を飛び越え、日常ではない非日常な感覚を獲得できる気がしたからだ。パフォーマンスを行う私さえも、周りを見ることはできないし、鑑賞者も私のことをみてはいけない。
ただ今回のパフォーマンスは、その異質な神的な存在が2階から、人間の営みの中心地である一階へと”降りてくる”という点が重要である。
今回制作で使わせていただいた古民家は、展示から数ヶ月で取り壊され、新たな新居が建つ。だからこそ、今回の儀式は鎮魂と祝祭の両義性を併せ持つ必要があった。かつての営みや記憶や思いを鎮め、次の営みへと繋げる行為として今回の儀式がある。
降りてくることで、実体のないものに実体が生まれ、「じゃあどうするの?」という、ある種の因果や論理的な疑問に鑑賞者が帰着することになる。「目の前のものは一体全体なんなのか?」見えないものが見えたとき、半端な理解をすることはできない。想像領域で担保されていた人々の安寧秩序から逸脱したところにあえて身を曝け出す。そうすることで、次に住む、次に家を建てるということが今回の儀式や展覧会全体への応答行為になる気がした。
話をパフォーマンスの内容説明に戻す。2階から這い出てきた私は、勿論目や足が不自由な状態なので、芋虫のように手探りでクネクネと移動しないといけない。コップなどの容器に溜まっているであろう水を探してクネクネと一階を動き回った。手探りで見つけては、顔についた泥体をその水で洗った。口の中もすすいだ。指を歯ブラシのようにし、ギシギシと歯も洗った。そして、そのまま容器に入った水を抱えながら、外に移動していく。少しずつ移動した先には、同展示作家である藤原が中心になって、イノシシやシカ、熊の死骸を埋めた畑がある。捌き、肉を取り出し、皮も剥ぎ、どうしようもなくなった残骸たちを土の中に埋めた。
その畑の中にはいり、私は手や頭を使い思いっきり無我夢中で穴を掘った。掘った穴に、一階で溜まっていた泥水を入れる。そして、今度は目や耳を洗っていく。次第に、身につけていた熊の毛皮が剥がれていく。周りが見えるようになる。身につけていた縄も解き身体が自由になる。同じく身につけていた蓑だけを身につけて、熊の毛皮は穴の中に入れる。その上に石を置く。そして、祈る。どのくらい祈っただろうか。しばらく経つと、その畑を出て皆に挨拶をする。これでこの儀式は終わった。
改めて考えてみると、私は自分の中の人間的な部分を動物的な装飾や行動を憑依させ見えなくしていた。この家の、この土地の動物的で人知の外にある神的な存在を自身に憑依させ、それすらも最後、ものや体液、汚れといった物質に変換し、土へと戻す。人々の営みの隙間に立つ、媒介者としての私が、そこにいた。