不動振動 2023/10/19
殻の内側にある聖域みたいなものは全てデタラメで私の身体は全て密接に重なり合う殻でしか作られてない。殻を破っては、ひたすらに自己を再構築していこうと意気込むほど、殻の奥に鎮座する殻の果てし無さに絶望し、本当の自分自身から遠ざかっていく気がする。
殻の内側は憧れや変身願望に対する依存によって形作られた幻想なのかも知れない。
俺は何処にいるの?どれが俺なの?
色々な世界線が複雑に私の中で駆け巡っている中、最終的に本当の自分など存在しないのではないかという無限地獄に落とされては、そこで生きるしかないという絶望感を糧に再び同じ事を繰り返す。
今思う。なんというか、不必要と切り離した”殻”にこそ自分の存在があるのかも知れない。というか、もっとどうしようもない、どうすることもできない原初的な本能のような行動にこそ、振動している、生き物としての絶対的な”私”の存在がある気がしてならない。
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「映像」について私が思うこと
映像ってメディアの名前。カメラによって現実を切り取ったり、CGを使ったり、手で描いたりと色々な映像があります。ただどの映像にも言えるのが、視線の誘導、それによって明確になる時間という果てしないものの存在です。映像とは時間を練り上げる表現方法なのです。
映像作品の多くはデジタル機器を媒介し光の屈折を利用して、現実世界に描写されます。
と言葉は言います。
そうでなければリアルタイムパフォーマンスと区別がつきません。しかし、私が思うに言葉というのは便利と不便利が共存している存在です。言葉の意味にそって自己を照らし合わせていくと、いつしか本来言葉の機能的欠陥がまるで自己矛盾であるかのような気がしてならず、自分自身の在り方を必死に修正しようと頑張ってしまいます。何が映像で何が映像でないか?という問いは極めて打算的に物事を把握しようとする思考力を育む側面を持つし、その問い自体自己矛盾の魔の手からは逃れられないのです。
しかし、映像という言葉を日頃から使っているのだから、私はそれについて考えていかねばならないと思うのです。その作業は既存の映像表現から少しずつ離れていく小島に身を置く行為でもあります。
映像はまったく違う島にいる鳥の言葉を話します。しかし、鳥には翼が生えています。だから、いつしかこっちに飛んで来てくれるような気がします。
僕と違うけど僕とどこか繋がっているような気がするのです。フィクションだけどノンフィクションというか、個として、単体として生きる私の存在を軽く飛び越え「あなたも私かも知れない」と思わせてくれる不思議な魔力が映像にはあるのです。
たまに私の頭の中では映像が描写されます。夢の中でも、日常でも。私の中に蓄積された断片的な記憶たちと現実世界から得た五感情報が化学反応を起こし、爆発し、私の本能にたたみかけてきます。私が日常的に見ている記憶の映像こそ、映像という言葉の持つ本来の意味だと思います。私にとってメディアとしての映像は、脳内の映像に明確な形を持たせ、誰もが観れる空間に共有したものなのかも知れません。
そうすると、何も映像はデジタル機器や直接的な光の屈折によって描写される以外にも、他の方法で表現される可能性だってあるのかも知れません。ただ、特徴として1番近い形を持っているのが「メディアとしての映像」というだけだったのです。
そんな事を思った私はそおっと映像編集の手を止めて、一旦別な形で自身の記憶映像と向き合った表現をしてみようかと思ったのです。