生きているということ。大きく息を吸って、吐く。意識が肺に向く。身体を傾けてみる。そしたら自然と右足が前にでる。その時の時間はゆっくりだ。だが、右足を出して左足を出していくうちに歩いていき、次第に私の時間は加速し始めていく。今まで意識していたことが無意識という暗闇へとフェードアウトしていく。そうやって駅のホームを歩いていると怖くなる。無数の人々の時間感覚に自分自身が一体化していく感覚が怖くなる。
山に身を置くと私の時間と他の生物の時間の間にどうしようもない隔たりを感じるし、同時にそれらは私と同じ土の上に生えていることに妙な感動を覚える。交わらないモノ同士が交わり続けている、山はそんな不思議な場所だ。
ある時幼少期から遊び場にしていた山がはげ山になっていた。切り株だらけとなったその山を歩いていると、そこには沢山の命が芽吹いていた。切り株の中から、岩と土の僅かな隙間から、新芽達は成長していた。大木が無くなり空が開け、日光を十分に取り入れるようになった新芽達はとても活き活きしているように見えた。切り株たちは徐々に腐り、分解され、土に栄養素として溶け込んでいるように見えた。何百年もかけて流転する土の循環の中にポツンと存在する自分がまるでちっぽけな存在のように思えた。でも僕は生きている。生きることができている。それはとても嬉しいことだった。
この映像作品はその山で暮らした日々を記録した映像とその山を舞台にしたパフォーマンス映像を合わせた二部構成の作品だ。生活すること、暮らすこと、生きること、連鎖と循環の中にある己の存在に目を向けた作品だ。
2022/12/10